最近のこと
何冊か本も読んだし、出掛けたりもしたから、いろいろと書きたいことはあるのにキャパオーバー気味で追い付かない。
ダメだなあと思う今日この頃。
わたしは割りと知り合いは多いほうだけど、友だちは少ない。
一定の距離を長く保つということが苦手。
自分が友だちになりたいと思った人にコンタクトを取って、お近づきになれたとしても、距離感がわからないからうまくいかない。
そのくせ、ちょっと苦手な人からは好かれてしまったりする。
なんか書いてて小学生みたいだな。
それとはまた別の話なんだけど、興味がないって言葉は、人を孤独にするなと思った。
以前、西加奈子さんが普通という言葉は人を孤独にするとおっしゃっていたけど、それもわかる。
人は、自分のものさしで何事もはかりがちで、押し付けがち。
人の上に立ちたがりがち。
伊坂幸太郎さんの『サブマリン』の中にも、
「相手の大事なものを蔑ろにするな」って言葉があって、なんだか繋がるよなあと思ったり。
自分のなかの普通じゃなくても
興味がなくても
蔑ろにしちゃいけないんだよね。
そういうことに気を付けてたら、距離の取り方もうまくなるんだろうか。
なんだろなこの独り言。
『これぞ暁斎!』
河鍋暁斎という幕末から明治にかけて活躍していた絵師が大好き。
全然詳しくないけれど、アートは好きで、よく美術展に出掛ける。
日本、海外、時代など問わずに、気になったら観に行く。
京都で『これぞ暁斎!』が本日から始まったので、喜んで行ってきた。
わたしは、人生にユーモアは一番必要だ!と思っている人間なのだけど、きっと河鍋暁斎も人生のなかのユーモアの割合を多めに持っていた人ではないかと思う。
戯画にしろ春画にしろ、なにかとくすりと笑える要素が散りばめられていて、とにかく楽しい。
「放屁合戦」なんて、アホすぎて笑える。
暁斎は鴉を気に入っていたらしく、かなり沢山描いていている。
わたしも近所で見かける鴉に「将軍」と名付けていて、通勤時に心のなかで話しかけたりしてるので、鴉をかっこよく描いてくれていて嬉しかった。
近所の将軍は、ゴミを荒らすことなく、常に堂々としていて品があってかっこいい。
将軍という名前は、「20世紀少年」のおっちょからいただいた。トヨエツ、怒るだろうか。
暁斎は誉めてくれる気がするのだけど。
『最愛の子ども』
『最愛の子ども』
私立玉藻学園に通う女子高生たち。
パパの日夏とママの真汐と王子の空穂。
三人はわたしたちのクラスのわたしが見守っている疑似家族〈わたしたちのファミリー〉。
いとおしいものを、ただ素直にいとおしく可愛がる。大人になる一歩手前の、あの独特な雰囲気。
性のめざめなのか、憧れなのか。
薄いガラスを腕のなかに抱えている気分で読んだ。
どことなくソフィア・コッポラの『ヴァージンスーサイズ』に似た雰囲気があるような。(誰も死なないけれど)
豊崎さんもおっしゃっていたけれど、帯にある「少女であることは非力で、孤独で、みじめだ。」は違う気がする。
彼女たちは非力すぎることもないし、孤独ではない。仲間がいる。幸福なコミュニティがそこにはある。もちろんその外に出たら世知辛いものかもしれないけれど。
そして、みじめかと言われると……それも違うような気が。
決して卑屈になりはしない。
根底に自分を、そして友だちを信じているからではないだろうか。
松浦さんは津村記久子さんのデビュー作『君は永遠にそいつらより若い』に衝撃を受けたとおっしゃっている。
二作には通じるものがあるとわたしも思う。
(お二人は文學界で対談されている)
『不時着する流星たち』
『不時着する流星たち』
まずはこのタイトル。このタイトル以外にふさわしいものがあるものか、とわたしは思う。
実在する人たちからインスパイアされて生まれた小川洋子さんの世界。
少し歪で危うげで、でも小さな光を放っているのだから正に不時着した流星たちなのだ。
この世の中には真実の出来事の影に、思わぬ物語が隠れている。それは表裏一体で、小川洋子さんのような人には見えるのだ。
私たちは、小川洋子さんを通して初めて踏み入れることのできるうっとりと美しい世界。
一番心に残ったのは『手違い』のヴィヴィアン・マイヤー。映画にもなった不思議なナニー。彼女は住み込みのナニーとして過ごしながら、膨大な写真を撮り続けた。けれど一枚として発表することはなかった。
そこから見つけ出された光が、私のお気に入りの流星となった。
小川洋子さんは『ことり』『ミーナな行進』と、まだ少ししか読めていないけれど、私はすっかり彼女の虜になっている。
はじめましてのごあいさつ
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